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■一部の場面や台詞にて、映画『L/E/O/N』をパロディさせて頂いてます。

■主に過去捏造+多由也の家族構成捏造注意。創作地域、創作モブが出てきます。

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 ウチは追われていた。追われている理由はわからない。何より自分を追っている相手には殺気が感じられない。

 それなのに、相手は手を抜いている様子はなく、どれだけ走っても走っても、相手との距離が縮まらない。

 体力には自信がある方だと思っていたが、何時まで経っても終わらない追いかけっこはウチのスタミナ不足で幕を閉じた。

 足が縺れて地面に倒れこむ。呼吸を整える余力も起き上がる余力もない。せめて相手の面は拝んでやろうと痛む肺を抑えて顔を後ろに向けると、月の光を背に受けて近づいてくる男の影が見える。

 

 見た目の年はウチと同じか、そこらへんだろう。真っ赤な色をした髪は、夕焼けにきらきらと照らされていて、こんな状況下ですら思わず息を呑んでしまった位には綺麗だ。

 それとは対照的に、雲の紋が着いた真っ黒なマントは夕日すら飲み込むようだった。

 

 顔が見える距離になると、男の目が髪色と同じ赤を持っていることが分かる。

 …どう見ても、見覚えのない人間である。

 

「テメーは…誰だ、目的は、何、だ」

 

 その間も赤色の眼は、不気味な程真っ直ぐにウチを見据えていた。

 

***

 

 今から数年前。暁も生まれてまだ産声も上げてないような段階の時。赤砂のサソリと呼ばれる男は、チンケな国のチンケな宿舎に身を置いていた。

 道で恐喝の場に遭遇しても、道の端で蹲る者がいても、道行くものが見て見ぬ振りをしているような国だった。――彼のようなお尋ね者が出歩くには都合の良い国だ。ぼろい宿舎ではあったが、抜け忍の身分の男が堂々と長期まで滞在できた程度には。

 宿に帰ってくるのが夜遅くであることも幸いしてか、他の宿泊客と鉢会うことも滅多にない点も、サソリが安心できた点であった。と、いうより、お互いがお互いに無関心だ。

 宿舎を住まいに利用している者たちも居ると聞いていたが、宿泊者は愚か、従業員も居住者も基本的に馴れ合いを好んでいないように見える。

 ――よもや、こんな環境の中で深く関わってしまう人間を作るなんて、思うわけがなかった――とは、サソリの弁だ。

 その日もサソリが夜遅く、不規則に点滅する電球が照らす階段を登っていると、吹き抜けの柵の付近に小さな子供が居座っていることに気付く。

 7つにも満たないような子供だった。伏せた幼い顔が世間の全てがクソだとでも言いたげにつまらなそうな表情をしていたものだから、いつもであれば気にも止めないような小さな存在を、サソリは思わず凝視した。柵から吹き抜けに突き出された肉付きの悪い両脚には赤らんだ部位や青くなっている部位が点在している。

 女児にしては我慢強い方であるのだろう。剥き出しの痛々しい脚にぱたり、と鮮明な赤が垂れた。一瞥しただけで整っていると分かる顔の、その中心から、一筋の血が流れる。多少拭ったのであろう靡いた痕があったが、鼻から溢れる血は止めどなく子供の足に滴り落ちていた。

 子供の茶色の目がサソリをとらえたのは、何滴目かの血が細い足を伝ったその直後だ。

 ハッ、としたような目線がサソリの目を捉えたその瞬間、子供の背後で勢いよく扉が開け放たれた。扉から出たその男は品のない足音を立てて、子供の背後に来る。反射的に少女がそちらを振り向いたところで、男は少女の今様色の長い髪を引っ掴むと、頭に血が上った様子で子供を罵倒し始めた。

 

「このクソ餓鬼!又俺のタバコをくすねたな」

「次やってみろ、今度は殺すぞ」

「穀潰しが」

 皮膚を強く打つ音が罵声に交じる。床に倒れたところで、子供はそこから弾かれたように、大きく開け放たれた扉の向こうに消えていく。慌ただしい音を立てて閉じられる扉の隙間から、一瞬だけ子供がちらりと振り向くのが見えた。

 男がまだ虫の居所が悪いような表情でサソリとすれ違う。静かさのかけらもない足音だ。こんな夜間に外出とは、女か酒か、仕事だろう。どちらにせよクソみたいな生活を送っているだろうな、と思いつつ、サソリはいつものように何も見ていないふりをして一番奥の自室に戻った。立て付けの悪い戸の音が、背後の廊下で虚しく響いていた。

 目線を交わしたのは一瞬だったが、サソリにはそれだけで理解ってしまった。自分と子供、互の目が、世界に絶望した者のみが持つそれであることに。

***

 

 又ある日、サソリが宿に帰ると、いつかの子供はデジャビュを感じる場所に座り込んでいた。あれから何度か鉢会うことはあれど、言葉を交わすことは無かった。サソリがその場に居合わせたのは、少女が慣れた手つきでタバコを口に運ぶ瞬間だった。

 生意気だとか、かわいそうな奴だとかは特に感じない、が、ただサソリは『勿体無い』と思った。目の前の子供の肺がじんわりと灰色に冒されていく様が脳裏に浮かぶ。――何か、嫌だな。

 サソリが『自分が言葉を発した』と気づいたのは、己の声が耳に届いた後だった。

「おい、ガキ」

 文章にもならないような声だった。それでも、子供は驚いたように顔をあげる。尤も、子供よりも心中で驚いていたのは言葉を発したサソリ自身だったのだが。

「それ、いつも吸ってんのか?」

「………何だ、説教のつもりか?」

「別に。肺が勿体無いと思っただけだ。それに、そのツラじゃあタバコも吸えないと思うがな。」

 子供の鼻からは、いつかの夜と同じように血が伝っていた。またあの男とのトラブルだろうか。父親なんだか赤の他人なんだか知らないが、やはり掃き溜めの連中だな、とサソリは感じる。自分より弱い者を虐げて心を満たす連中なんざバカバカしい。その種から産まれたかもしれないこの餓鬼はどうなんだか知らないが、少なからずそんな輩が周囲にいることは実に哀れだ。

 そんなことを考えてしまったからなのだろう。目の前にいる小さな子供にハンカチを差し出してしまった位には、同情心が芽生えていた。

 ハンカチを差し出された子供は、驚いているように見えた。見開かれた瞳でハンカチとサソリの顔を交互にみると、怖々といった様子で小さな手がハンカチを受け取る。

 そのまま戸惑った手付きで鼻を拭うと白い布は一瞬で赤い血が散らばった。それが契機であったように、子供は一気にごしごしと鼻を擦ると、サソリと顔を向き合わせる。

 

「…なぁ!ウチ今から買い出しに行くんだ。何か、必要なモンあれば買ってやるよ。…これ汚したお詫びに。」

「何も要らねぇ。」

 断っておくが、サソリは子供をつっぱねるようなつもりでそう言ったわけではない。事実、何も食事の要らない、汚れの出ない体である自分が必要なものなんて本当に無かったのだ。しかし子供は焦ったように目線をうろつかせると、急いた声で続けた。

「待ってくれ。………蜜蝋だな?」

 サソリはまだ幼い子供の口から出るとは思えない単語に目を見張る。確かに、サソリは蜜蝋を頻繁に買っていた。骨の欠けた部分の詰め物や、ワックスや接着剤、塗料などにも有用なその物質はこの国で馴染みの深い物であるらしく、ここいらでは多くの店で取り扱われている。己の武器として傀儡を扱うサソリにも然り、大変馴染みの深い品だ。彼の驚いた様子を子供は見逃さなかった。猫のように満足げに目を細めて子供は得意げに言葉を重ねる。

 

「何に使うかはわかんないけど、いつもそれを引っさげて帰ってんだろ!」

 サソリが是も非も言わないうちに子供は弾けたように柵から足を戻し、カンカンカン、と軽快な音を立てて階段を駆け抜けていった。タバコを吸っている所を見た時はマセた餓鬼だと思ったが、案外年相応の中身かもしれない。最早姿の見えなくなった子供ひとりを追いかける気もなく、サソリは大人しく自室の扉を開けた。

***

 数分後、扉の外から慌ただしい音が響く。サソリが扉の側に近づき、覗き穴から外の様子を伺うと、いかにもガラの悪い男達がある部屋に押し入っていた。

 男達はこの国の忍だろう。中忍以上のものが着る深緑色のベストを身につけている、が――所詮お尋ね者の抜け忍がこうして大した徒労もなく滞在しているような国なのだ。そんな国が管理する忍もまた、肥溜めのクソのような中身のチンピラ上がりばかりであろう。

 男がひとり、扉の前で音を遮断するための術を用いているが、大した術の使い手でもない。微量に漏れた音からせいぜい下忍上がりの中忍といった所だなとサソリは結論づける。

 騒がしい足音、命乞いのような情けない悲鳴、最後に武器が皮膚や肉を切り裂く音が何度か耳に入る。最後の悲鳴はそれなりによく聞こえた。あと一歩で部屋の外、というところだったのだろう、扉下の隙間から真新しい血がつー…、と線を描いた。

 一般人であれば多少騒がしい生活音だと誤魔化しも効くことだろう。しかし同階の、それも指折りの忍であるサソリには十二分にその部屋で繰り広げられている惨劇が理解できた。――そういえば、そこの部屋はいつかにあの子供が入っていった部屋ではないか。

「……写真、………」

「殺し…、…家族だ!あとひと…」

「…子供の…」

 

 断片的だがその言葉の断片を理解してしまったサソリは小さく息を飲む。今あの部屋で惨殺を行ったチンピラは部屋の一家惨殺が目的であるようだ。

 つまり、あの子供も、買い出しから帰れば十中八九殺される。

 …馬鹿馬鹿しい。何故たかだか餓鬼一人のためにこの俺が焦らなくちゃいけねぇ。この面倒事と俺は無関係のはずだ。俺はただの同階に滞在する宿泊客だ。

 サソリが思考を改めているうちに、新たな音が扉の向こうから聞こえてくる。

 ――…カン、カン、カン

 軽快な階段の音が徐々に大きくなっていくことに、サソリは自分の背の空気が張り詰めたのを感じた。

 覗き穴の向こう側で、子供は上機嫌に階段を駆け上り、自分の部屋の前に居る見慣れない男を一瞥する。いかつい男の足元に目線を向け、鮮明な赤を目にしたとき――その顔がは、と引きつった。自分の居住地であったであろうその扉の前で立ち止まりそうになった足は怖々と一歩、また一歩と踏み出され、惨劇の部屋を通り過ぎた。

 …あの子供は随分頭がいい。サソリは無意識のうちに張り詰めていた空気を解すように息を小さく吐いた。あの反応であればまだ、『居住区にいるいかつい男と、その足元の血痕に怯む少女』ということで説明がつくだろう。幸い扉の前の男には子供の顔が割れていないようである。

 子供がぎこちない脚を止めたのは、サソリの目下…彼の部屋の前であった。震える指先がノックの音を刻む。サソリは扉を開こうとドアノブに手をかけ――ふと我に返った。

 待て。先刻にも考えた通り、この子供は俺とは無関係なただの餓鬼だ。暁という新興組織に所属する忍として、ここで軽率な判断をすれば厄介事を招きかねない。腐ってもあのチンピラ共はこの国の忍だ。この子供と関わったことで起こる二次災害で、俺の素性が割れない保証もない。何も口減らしをすることは造作もないことではあるが、こんな小さな子供の為にそんな面倒をする必要こそないのだ。罪もない子供が殺されるなんて何度見てきたと思っている。それどころか、自らが手をかけたことだって両の手では数え切れない。人間のようにまどろっこしく考えるな。世界とはそういうもので、忍とはそういうもので、俺はそういう存在なのだ―――

 恨むなよ、とドアノブに触れた手が離れた所で、小さく鼻をすする音が聞こえた。コンコン、と再び乾いた木の音が部屋に響く。

「…………………開けて…くれ…」

 それはドアの正面に居るサソリにしか聞こえなかった声だろう。それ程小さな声だ。しかし、そのちっぽけな震えた声がサソリの頭に反響した。

 何で、手ぇ止めてんだ。葛藤の必要なんかない。無いだろ。この餓鬼は厄介事の種だ。

「……開けてっ……お願い……っ!」

 喉の奥を引きつらせたような声を耳にして、思わず覗き穴の光景に目をやってしまったからもう、サソリには為すすべがなかった。

 精巧な顔は、後一歩というところで泣き出してしまいそうな程で、必死で嗚咽を留めている。噛み締めた唇は、血潮のように赤々としていたというのに恐怖で真っ白だ。

 何度もノックを繰り返した子供を、扉の前に立っていた男が不審そうな目で凝視していた。男は子供に向かって一歩を踏み出そうとしている。

 クソが、と心中で狼狽にも似た悪態をついてサソリは―――勢いに任せドアノブをひねった。

 そこからはもう堰を切ったようだった。

 ゆっくりとドアを開けばはっと息を呑んだ子供と目線がかち合う。「おかえり」と口を動かし、冷たくなった背中に手を回して部屋の中へと招く。子供は何も言わずに、まるでそれが当たり前であったかのようにゆっくりと背中に当てられた手に逆らうことなく中へと足を踏み入れた。親子…いや、俺の外見であれば十中八九、『同階に身を置いている、騒動とは無関係な兄妹』に思えるだろう。少なくとも、『一家惨殺の標的とそれを匿う男』には見られまい。

 不審そうな目線で子供を見ていた男を一瞥し、何か用か?とこちらが更に不審そうな目で問えば、もう男はこちらに興味をやることもせずふい、と目線をそらした。

 まるで我関せず、とでもいうような呑気な音を立てて扉が閉まる。

 ああ、クソ。お前はいいよな何にも考える必要も頭もなくて。

 脳内で物言わぬ扉に無益な悪態をつきつつ、サソリは自分が確実に何かを踏み外しつつある状況を狼狽した。

 

***

 今、サソリは頭を抱えている。

 

 テーブルの向かいには女の子供が赤らんだ目を隠すことなく黙って俯いて座っていた。静かにしゃくり声はあげているものの、家族が死んだというのに泣き叫ぶこともない。まぁ、そんな事態があったからこそ、泣き叫ばれたら困るというものではあるが。父親らしき男はあんなチンピラに縁があった位にはクズであった様子だが、あとの家族は知らない。そもそもこんな子供の事情なんか知ったこっちゃなかった。何故俺はあんな真似をしてしまったのか、とサソリは悔やむが、それも後の祭りなのだ。

 

 ふと目線を上げると、あろうことか子供の目線はテーブル脇の毒薬と凶器の詰まったケースに注がれていた。それだけではない。確かあの中には整備中の腕を入れているはずだ。

 しまった、そういえば開いたままだった、と更なる後悔がサソリを襲う。

 

「おい、見るな。」

 

 サソリが小さく舌打ちをしてケースの口を閉じると、子供は無表情を崩すこともなく目線をサソリに向ける。

 

「お前…仕事は?」

「……………………人形を作って生計を立ててる。」

「嘘。只の人形師なら、そんなに慌てる必要…無いだろ。」

 

 透き通った目がぴたり、とサソリの目とかち合う。その瞬間、サソリはこの子供に嘘やごまかしは通用しない、と本能的に確信した。

 

「忍だ。カタギでもない。…人殺しが趣味なもんでな。」

 

 未だに無表情を徹するその子供に味気なさを感じていたことも相まって、半ば脅しの意味も入っていた。尤も、人殺しが趣味というのは方便だ。サソリにとってはその動作の『後』が重要だ。サソリが告げると、子供はサソリの予想していないような反応を返した。

 鮮やかな赤を取り戻した唇が弧を描く。つり目気味の目を見開いたその表情は、先程まで死の淵で命乞いをしていたようには見えない程妖艶に形どられている。

 

「すてきだ。」

 

 熱に浮かされた声で発せられたのはたったその一言。それというのに、サソリの背筋はぞくり、と疼く。それ程までに、子供は年齢に不釣り合いな表情をしていたのだ。

 

「…人殺しを頼むには、どれだけ対価が必要なんだ?」

「やめとけ。お前みたいな餓鬼じゃあ人間の手足分も支払えない。」

「でも!…だって、……いくらだ。教えて欲しい。」

「……」

 

 今にもテーブルに身を乗り出しそうな程に食いついてくる子供に、サソリは深い溜息をついて手近にあったメモ用紙に額を提示する。最後のゼロを記入し「これ位だ」と告げると、子供の息を呑む声が聞こえる。それでも、瞳は困惑に揺らぐだけで奥にある意思は消える気配がない。

 

「な、馬鹿馬鹿しいだろ。他の家族はどうだったか知らねぇが…あんなクズの為にこんな対価払うなんざ、損しか産まねぇ。」

「クズ?…ああ、あの時にあいつがウチをぶん殴ってんの、見られてたな。あいつはどうせ遅かれ早かれ、ウチが殺してた。お前の言ってる通りだ。あんなゲスチン、どうでもいい。クソ以下だ。きっとさっきのこともあの野郎がやらかしたに決まってる。……あいつの女も、気に入らないことがあるとウチを殴るクソアマだ。怒鳴るし蹴るし、ウチが何しようがタバコ吸おうが、タバコをくすねたことに怒鳴り散らすだけで叱ってもくれなかった。」

 

 瞳の揺らぎが消え、幼い声に殺意が篭るのを感じた。感情を殺した冷たい声だ。父親への殺意も、どうでもいいという思いも嘘じゃない。この子供には両親に対する情が無くて良かったな、とサソリは他人事に考えるが、余計にそうまでして復讐を望む心がわからなくなった。

 

「分かんねぇな、じゃあお前、どうして――」

「……………弟がいたんだ。連れ子だったけど…まだ4つにもなってなか、ったっ!っ愛想のないウチ、に、一番、懐いてくれ、ててっ、っ……!!」

 

 子供はここに来て初めて大きく表情を崩した。赤らむだけで留まっていた目からはぼろぼろと大粒の涙が溢れる。子供は小さい肩を上下させ、抑えることのできない嗚咽を繰り返していた。

静かな部屋を子供の泣きじゃくる声だけが支配する中、サソリは目の前で泣きはらす子供を見て「そうか」と素っ気ない言葉を紡いだ。

 サソリは外見に不相応な年の功から、こんな子供は何人も見てきている。まして、更に酷い状況に置かれた子供だって記憶の糸を辿れば何人か該当するだろう。だからこそ、かける言葉が見つかる訳もないし、彼らが欲しているのは中身のない薄っぺらな慰めや共感だとか、そんなものではないと理解していた。

 サソリは暁のメンバーの象徴でもある、黒塗りした爪で飾ったその手を差し伸べない。それが、今目の前にいる子供のためでも、自分のためでもあるのだから。

 

***

 

 夜。あれからほどなくして泣きつかれた子供は整えられたベッドの上で眠っている。

 睡眠を必要としないサソリの都合上、この国に滞在し始めてから一度も本来の用途として機能していないベッドだった。精々傀儡の置き場に使っていたくらいだろうか。多少なりと埃を被っているだろうかと考えがよぎったが、そもそもベッドに寝かせる時点で自分にとっては出血大サービスもいいところだ、とサソリは考えることを傲慢に諦めた。

 尤も子供は今も、規則正しい寝息を立てて、寝苦しそうな気配もなくベッドに体を預けている。何ら問題も感じない。

 

 サソリの黒いつま先が、『仕事用具』の詰まったトランクの口を滑った。

 音もなく開くトランクの隙間から、鋭利な刃物を取り出す。通常医療用で扱われるような代物だ。戦闘用ではないため、痛みなく肉を切り裂く為に用いられる。先刻サソリは人殺しが趣味だ、と言ったが、力も無く罪もない子供を苦しめて殺す趣味は無い。

 そういうのは、ひと思いに殺してやるに限る。相手は子供で、その上痩せぎす。大した兵器に加工もできないだろうが、元々人形のような容姿だ。実用性は勿論ではあるのだが、作品というのは美しさも忘れてはいけない。傀儡に変える価値はある。

 サソリは動きに迷いもなく寝静まる子供の側に立ち、子供の首筋に刃物を添える。忍術やチャクラ糸を使う作業よりも簡単だ。無抵抗で無防備な子供を殺すだけだ。この手を少し滑らせればいい。

 

 それというのに、サソリの腕はその「少し」の造作の直前で一時停止のように止まっていた。

 

 ―――俺は何をしている。動け、俺の腕。どうした。殺すしかないだろう。それが俺の保身のためでもあり、この餓鬼の救いでもある。身寄りの無いやつだ。ここで殺しても差支えはない。俺は今この餓鬼を殺して、明日には何時もどおりこの国で暁としての仕事をこなす。利害だけを見ていろ。そもそも人道的にも間違っていない行動じゃねーか、仮にコイツが翌朝起きた所で、どうせ弟への無念に支配されるだけだ。この餓鬼、今までも理不尽に虐げられてきたんだぞ、覚えてるか、こんな弱っちい体してんのに俺にそっくりなあの目ェ。こんな世界で、この先生きて何になるんだ。俺の腕なら苦しまずに動脈をかっきってやれる。わかりきってるじゃねぇか。何年忍やってきてると思ってやがる。俺は狙い所を外さない。今や俺の望む通りに武器は当たる。楽にさせてやれ、早く、早く殺せ、殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ、くそ、関節の油切れでも起こしたか、こんな時に…!――――

 

 サソリは硬直した腕を引き、刃物を振りかぶった。

 

 しかし、子供の頭上のシーツに綺麗な切れ目を残すのみで、子供は相も変わらず寝息を立ててそこに生きている。

 サソリの目線が上下する子供の首を捉える。鋭利な刃物を視線の先めがけて振りかざす。

 

1振り、2振り、3振り、4振り5振り6振り7振り8振り9振り10振り11振り12振り13振りベキッ―――

 

 ひらひらとベッドからはみ出た白い羽が舞う。柔い布に散らばる無残な刃物の切り跡から、羽毛が溢れ出す。戦闘用ではない故に繊細な、折れた刃物の切っ先が白いシーツに滑っているのを目視し、サソリは初めて自分の手にするものがただの薄い鉄の棒と成り果てたことに気づいた。

 細いその首には赤の一滴も存在していない。ただ、己とよく似た色をした赤に近しい色の髪だけが、白いシーツの上で鮮明であった。

 今までかき乱されていた心が、それを見て安堵してしまった事実にサソリは気づいてしまった。望み通りだ。と頭の良い彼は瞬時に答えを出す。非情なことに、サソリが招いた必然の結果はこれであったのだ。

 

 

 ―――なんだ、動けんじゃねーか俺の腕。

 

 

 サソリは、深く絶望した。

 

***

 

「ウチを、忍にしてほしい。」

 

 起きたきり黙り通しだった子供が、次の日発した第一声である。とうとうサソリは無い痛みが頭を襲う錯覚まで起こした。

…これだから、昨日の内に殺しておけば良かったのだと、彼が昨夜の自分を責めたことは想像するに容易いだろう。

 

「………遠くの孤児院への手配くらいはしてやる」

「頼む。何でもしてやるから。家事もやる。ウチは料理掃除洗濯、思いつく限りのことは何だってできる。使いっぱしりでもする。何も正規の忍者になりたいんじゃない。ただ、弟の仇を討つ術を教えて欲しい。金がいるなら何年かかってでも、いや、身を削ってでも払うから、だから、だからッッ!!」

「――おい」

 

 冷え冷えとした声が子供の声を遮った。先程のように呆れたような声でも、狼狽しているような声でもなかった。怒声を浴びせたわけでもない。しかし、その声は只の2音だけで簡単に子供の畳み掛けるような懇願を綺麗に止める位には迫力があった。サソリはその迫力のまま、怯む子供に言葉を重ねる。

 

「駄々こねンのもいい加減にしろ。自分の手ェ汚せるほどロクに心も育ってねぇ餓鬼がナマ言ってんじゃねェっつってんだよ。殺し?金ェ?口先だけならどうとでも言える。私情だけで先走ってる手前の徒労に俺を巻き込むな。」

 

 サソリの言葉に目を見開く子供に背を向ける。酷いことを言ったつもりは微塵もない。

 仇を討つな。復讐は何も生まないだなんてちゃちな一般論を持ち出すつもりもない。そもそもサソリは復讐は何も生まないなんて、本来何も大切なものを失っていない人間ののたまう事だと思っている。

 生産性など無くて然るべきであるのに何を言ってるんだと薄ら寒ささえ覚えるのだ。自分の大切なものを壊されて、恨まない人間が何処にいる。少なくともサソリの生涯の中でそんな気持ちの悪い聖人君子様々な人間はいなかった。

 サソリ自身も例に漏れてはいない。例に漏れていないからこそ、サソリは『赤砂のサソリ』としてこの世に存在しているのだ。

 ただ、この子供はそんな復讐心を滾らせるのみで心身共にそれに伴っていない。そんな子供を抱える労力を割くのも自分にとっては非効率でしかない。サソリが再度、何故昨夜殺さなかったと自分に憤っていると、背後から物音がした。

 

 まさか、とサソリが振り向いた時は遅かった。

 窓際に立つ子供の手には開け放たれたトランクから取ったであろうクナイが3本握られている。ずっと沈黙を徹するものだから、サソリは子供の心は旣に折れたものだとばかり思っていたのだ。

 そして子供は表情を崩すことなく、サソリの部屋の窓から外へと、3度、クナイを投げた。

 

 外の大通りで悲鳴が上がる。突然空からクナイが降ってきたのだ、当然である。

 今度はサソリが目を見開く番だった。風通しが無駄に良くなった窓と子供を交互に見る。

 

「―――これでもか?」

 

 それは意思表明でもあり、威嚇でもあり、挑発だった。まだ自分の3分の1にも満たないような年の子供に、これを見てもお前は自分の決意を信じないのか、と挑発されている事実に自然とサソリの端正な口元は弧を描く。

 

「武器の扱いはてんでポンコツだな。…餓鬼、名前は?」

「――多由也。苗字は、そう。昨日捨てたばかりだ。」

***

(0818/16)

​(0905/16・修正)

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